先日、私のブログにリンクもしている上海在住のRUISUIが帰国して幹事となってくれて、大学の友達と久しぶりに会いました。イタリア留学前に会った友達ばかりで、実に2-3年ぶり…!友人Kは知らない間にお母さんになってたし、友人Sの子どもは6歳になってた!時間が経つのって本当にあっという間だなあ…。大学卒業して9年目。大学やそれぞれのアパートで子犬みたいに笑い転げてたのに、今はみんなそれぞれ違う「色」を持ってる。それがまぶしいような、歯がゆいような…。でも、語り始めるとあっというまに大学時代にもどったように語り始める私達。「まさかAdesoが結婚とはねー」と私が結婚したことに驚かれたけど。ってなんでやねん。
さて、ミケちんが出張中の一夜、デンマーク映画『OPEN HEARTS』(邦題:しあわせな孤独)をTVで見た。ドキュメンタリーのように作られた映画だった。人の強さと弱さは表裏一体、両方を人間は持ち合わせている、ということを、淡々と、全くドラマ性を感じさせずに表現してた。至極簡易化すると、3人の子どもがいる家庭の父親が、23歳の女性と恋に落ち家庭を捨ててるけれども、この若い女性は結局この男性とも別れる、というような話。ただし、不倫・家庭の崩壊という場合に日本語が持つようなどろどろしたネガティブな価値を持たず、映画の主人公達はある意味淡白にその現実を受け入れていく。北欧の日本の社会文化における「家庭」のあり方の概念はものすごく異なることの1つだと思う。でも、心の傷や痛さは、ドラマッチクな表現の映画よりもかえってより切実に胸に迫るものがあって、本当にキリキリと胸が痛んだ。怖かった。
…なんで怖いんだろう?
映画の終わりごろ、元の家庭を捨て、新しい恋人にも去られた男性が、去っていく若い彼女に言う、「僕達はこうなる運命だったんだ。僕は後悔してない。」
人間の出会いって、制御不可能。「これは絶対に安定」と思うものが、出会いによって崩れることがある。例えば映画の彼のように、家庭にももはや帰れず、愛してると選択した若い彼女には去られた場合、なんて言えるだろう?「僕達はこうなる運命だったんだ。僕は後悔してない。」と言うのは、彼女に向かって言ったセリフではなくて自分に言ったんだろう。私も含め、人はそういうものだとも思う。「自分がこういう状態にあるのは、不可避だった。自分では制御不可能な“運命”だったんだから。だから後悔してない(してはだめだ)。」でも…そうだろうか?
私の信念とは合わない。そう言いたくなる(自分を元気付けたり、前向きに考えようとするために)と思うけど、やっぱり、運命ではない選択肢はあったと思う。そしてAかBかという選択をした理由は、自分の手の届かないところにある「運命」ではなくて「自分」だと思う。それは、他人にもそう思う。だから怖いと思う。その時の選択は、その時正しいとかこれしかないと信じたものであって、後で後悔するかもしれないけど、結果を受け入れるしかない、という風に考えると思う。ううん、そう考える。
私の今の幸せは、不幸せの表(又は裏)にあるものだと思う。それを改めて感じさせる映画だから怖くなった。今ある幸せは、結果じゃない。ずっと"On-going"な “過程”であって、完成することなんてあり得ない。「裏切り」なんてない、と思うことが怖いと思う。人との出会いはコントロールできなくて、ということは、ミケが制御不可能と思うほどに私を裏切ることがあるかもしれないし、私がミケを裏切ることがあるかもしれない。その「かもしれない」があると知るから「それはしない」というプロセスを確かめ合うんだと思う。いろいろな可能性(選択肢)を意図的にまたは無意識的に選択し続けて、同じ大学課程から卒業したた友達皆がものすごくかけ離れた空間にいる。そう思うと、可能性の空間は果てしないと気づく。そのなかでプロセスを踏み続ける「人」を、もろいと私は思う。私も、ミケも。そして、だからすごく愛しいと私は思う。
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