Monday, March 29, 2004
ストライキ 2
写真はMyRoomその2.
ちょっと興味を持ったのでイタリアの経営者団体と労働組合の第二次世界大戦後の変遷を調べてみた。
第 二次世界大戦後、イタリアも日本のように高度経済成長が生じて、対戦直後の労働運動がレイオフ(一時帰休)に対する保障、エスカレータ式賃金、経営参 加、生活必需品への補助金など多くの成果を手に入れた、ということ。そして、1950ー1960にかけて他の西欧州諸国を上回る勢いで経済成長を遂げた。 けれども同時に、当時与党であったキリスト教民主党が国家資源の乱用をしたため、南北の成長格差が著しく生じる原因となった。労働市場では、労働力余剰の 状態が60年はじめまで続き、労働運動が活性化する余地がまったくなかったらしい。さらに、各労働者団体が政治団体という軸に沿ってイデオロギー的に分裂 していったため、全体的に弱体化していた。それが、前述した労働市場の悪条件の改善によって、1960年代以降、労働運動が戦闘性を強め、ストライキを組 織するようになった。労組間の政治的分裂は続いているものの、結束した行動が拠り大きな成果を手に入れることができると認識するようになった。
イ タリアの労働運動はの弱点は、労組が政治的に分裂していることと、イタリア共産党が、他の西欧諸国における共産党ほど政治的に重要な地位を得ることがで きなかったこと。それでも、1970年代には「熱い秋」と呼ばれる労働運動の高まりがあり、ゼネストにより、政府・経営者との交渉権の保証、寛大な年金制 度、生産性を上回る賃金制度を持つ労働契約、超過勤務・レイオフ・工場の現代化(機械化)を行う際の労働者側の承認の必要などを手に入れた。
1970 年代後半から、イタリアは福祉国家の仲間入りをするようになったが、こうしたサービスを提供するための資金を肩代わりできるような財政は、資源を 乱用していたキリスト教民主党によるイタリア政府にはなかった。イアリアは、先進諸国でももっとも高額な労働者給付金を経営者側に支払わせることで、イタ リア政府はこの問題を回避した。が、このことは、経営者側の新規雇用へのモーティベーションの低下、より低賃金な労働者への雇用、脱税、国際的競争力の低 下などをもたらすこととなった。また、イタリア企業が政治スキャンダルと深くかかわりをもってきたことで、こうした企業に負担を強いる福祉システムも、非 公正、非効率的、高負担なシステムとして90年代まで残った。
1980年代、産業構造の変化や政治背景なども起因し、労組は弱体化し分裂 化した。反対に経営者側が勢力を回復し、1990年代に労使関係の抜本的な改革 を要求した。結果「熱い秋」に労働者側が得た、レイオフの保障と生活費の自動アップは失われた。1990年に入って、キリスト民主党の崩壊とそれに起因し ていた財政危機、EU加盟などを背景に、真剣に、赤字削減と福祉国家再編に取り組むようになる。税制改革、年金制度改革や労使関係の見直しが行われ、労働 者側に多少ならずとも以前の条件から比べると犠牲を強いるものとなった。
こうしてみると、イタリアでは労働者側が、組織的には政治的に再 分化されて結束しておらず弱体なのにもかかわらず、他の西欧諸国と比べると厚遇されてきた ように思われる。けれど、この「厚遇」が、効率的に機能している国家財政の土台を持ち合わせておらず、にもかかわらずキリスト教民主党への支持を保持する 意味合いから保障されてきたものだった、ということなのかな?ショーペロが労働者側の成功に終ったことは1970年代以降殆どないらしい、にもかかわらず 頻繁に起こるのも、ショーペロをすることが政治的・社会的に「厚遇されている労働者」のアクションとして容認されてきた、ということなんだろうか。頻発し ていることで、ストライキが持ちうる意味合いをなくしてしまっている、ということもありうるのかな・・・?
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